回想〜鹿児島DAYS③

盆休みは故郷に帰り、昔の友達と再会するって機会も多いと思います。僕は盆も仕事なのでそうは行きませんが、このブログの中で昔の記憶に里帰りしようと、今日の記事はあえて思い出話です。僕が鹿児島で過ごした(訳あって)5年間・・・あの頃の仲間がこのブログを読んでくれていたら、ぜひとも書き込んで欲しいなと願いつつ、僕の鹿児島DAYSで印象深かったことを羅列しようと思います。
  
1、130人ものゲストを迎え入れた僕の部屋
僕はホームパーティーが好きで、たくさんの友達を家に招待していました。僕の家は学生用マンションにしては広い、6畳+4畳半の2部屋+4畳半のキッチンを持つ家でした。(その正体は築20年の文化住宅なんだけど) 僕は放送研究会に入っていたのですが、その1年生だけで開催した焼肉パーティー(その時は13人!)をきっかけに、男5人で半ば無理やりの共同生活をしていたり(ていうか押しかけられただけなのだが)、ラジオドラマの収録スタジオとして開放したり、放送局のバイトを始めた時は局のアナウンサーやレポーターの人を招待し、とくに3月頃は鍋パーティーをよくやりました。そして、英語の専門学校に通い出してからは、そこが全国展開していることもあって県外からのゲストを多数招き、一番遠いところでは札幌から来てくれた人もいました。そんなこんなでこの家には、1人1カウントとして計130人のゲストが来てくれました!そんな楽しい時間を共有できる家で生活していたのです!ここから見える鹿児島の夜景はきれいだったなぁ。山の上だから帰るのはしんどかったけど。
  
2、とにかく元気だった深夜帯
学生の頃はとかく夜型人間だった為、オールナイトで遊ぶ事が多く、ボウリングやカラオケに行く機会が多かったです。その中でも一番楽しかったのはドライブ。一日二日は寝なくてもやっていけたような、エネルギーを爆発させた時代でした。けど、もっと都会の大学に行っていたら、ナイトライフはもっとエスカレートしていたんじゃないかな。関西に住んでいると、深夜に立ち寄れるスポットは無数にあるから・・・社会人になってもオールナイトで遊んでいたけどね。今はもう無理だ!多分。
  
3、学生時代の貴重な体験。ラジオ局のAD
僕のバイト先は鹿児島のAMラジオ局でした。(地元の人ならどこかは一発で分かると思います。)多くの人の生活の一部になっている番組を一緒に作っているという喜びや、公開番組でのゲストやリスナーとのふれあいが、今でも素敵な思い出になっています。時にはリポーターをやらせてもらったり、深夜のテレビ番組(この局はテレビもやっています)で意味不明なダンサーをやってたり・・・普通のADは裏方なのに、表に出ていたこともありました。けどラジオっていうのは想像のメディアであり、音や声を配信するだけで後は聴き手が作り上げていくものだということもあって、ヘビーリスナーやパーソナリティー(しゃべり手)への熱烈なファンが多かったような気がします。そして、ADの僕にも中高生ファンがいたのにはびっくりしました。(ファンレターをもらったこともあります!) けどやはり嬉しかったです!
  
4、「サークルに参加する」から、「サークルを造る」へ
大学に入った時は、当然友達もいなく、まず最初に友達作りをする目的もあってサークル(放送研究会)に入ったのですが、その時は30年近く続いているサークルに、普通に「参加する」ことから始めました。上級生になったら会長や部署長になる人もいましたが、僕は最後までヒラ部員でした。(そっちの方が気楽か?) サークルの現役部員からOBになった4年目、今度は、英語の専門学校で全国展開の「多くの人とのつながりと、リーダーシップを育てるサークル(これは僕の勝手な解釈ですが・・・)」を作ることになり、運営はそこの学生が行う事になりました。その時、僕はいくつかある部署の、ある部署長になり、それがきっかけでイベントの企画長を務めるなど、次第にサークルの運営に乗り出すようになっていきました。多くの人とのつながりを持つ為にはみんなが参加しやすいイベントを作る必要があると、企画したのは鹿児島の繁華街を使ったたトレジャーハンティングでした。今考えると、学生にしては大々的なプロジェクトだったなと思います。結果、イベントは無事終了し、同サークルの企画スタッフとの絆が深まったのはよかったのですが、学校本部の思い描いていた趣旨とは大きく異なるという理由で、鹿児島校のそのサークルは解散させられてしまいました・・・。以降、音信不通となってしまった仲間が多いのですが、活動期は大いに盛り上がり、そして一瞬のうちに散っていった、まさに花火のようなサークルでした。そこで出会ったメンバーの1人が、このブログによくコメントしてくれている、ナオちゃんなのです!
そして、このサークルのような大きなことは出来ないが、鹿児島時代に果たせなかった、みんなで集まって楽しいイベントを開催し続けることを具現化したのが、今の関西の仲間とのサークル活動なのです。
  
思い出話は他にもたくさんありますが、こうやってその一部を綴っているだけでも、あの頃はいろんな事していたんだな、と、懐かしく思うのと同時に、今の自分はあの頃に比べて、まだ生きるエネルギーが足りないのではないかと思い知らされることもあります。いくら年をとっても、やりたい事がはっきり見つかれば全力で取り組める・・・。あの頃は、そんな全力で取り組めることがたくさんありました。だからこそ、今が一番輝いている、と言える様な何かを見つけようとあがき続ける今の自分を痛感してしまいました。あの頃の仲間に、「今はこんなに頑張っているんだぞ」と嬉しい報告が出来るよう、何とか頑張って生きていきたい!そして、あの頃の仲間とまた、鹿児島で再会出来る事を願って、この記憶の旅を終えたいと思います。読んでいただいた皆様、ありがとうございました。
  
※おまけ〜前々回の答え合わせ
前々回のブログで紹介した鹿児島弁の意味
「わっぜびんてきた」=「超むかつく・ものすごく頭に来た」
「よかにせ」=「イケメン・いい男」
ラーフル」=「黒板消し」(語源はポルトガル語!)
「チェストいけ」=気合を入れる時のかけ声。特に意味はないそうです。